区役所の帰り道・・・桜で思い出した原稿の事

区役所から歩いて30分。最近、一日一万歩のため歩いている。意外な発見があったり、立ち話しが始まったりと情報収集にも役にたっているが、とても素敵な桜に見とれてしまった。

多くの桜が、散ってしまった後なので、余計に気になってしまった。この桜は、櫻茶になっているなあ・・・と思いながら・・・。004_5

櫻茶には、衝撃的な思い出がある。

「本」にする予定の原稿を貼り付けてみる・・・と・・・・・・・・・いつ本になるか判りませんが・・・・。

はしがき

「人間は一生の間に、会うべき人には必ず会える。それも、一瞬早くなく、 一瞬遅くもなく」という言葉がありますが、誰と出会ったかによって、その人の一生は大きく変っていくものと思われます。

私にとって、三島由紀夫氏との出会いは、私の人生を変えた大きな出来事の一つでした。

今から丁度四十年前、昭和四十二年、私はその時十九歳、まだあどけなさも抜けない少女でした。月刊誌『論争ジャーナル』という雑誌の編集室で、私は三島由紀夫に初めて出会いました。

文学少女でもなく、特に本を読むことが好きであったわけでもない私は、三島由紀夫という作家の作品をきちんと読んだことがありませんでした。それどころか、当時の私は、三島作品に対して、これといった理由があったわけではありませんが、あまりいい印象をもっていなかった。ところがひと目会っただけで、それまでの印象は一変しました。

「瞳の奥から光を放っている純粋な感じの人」、今にもその瞳に吸い込まれそうな魅力的な人でした。

 この頃、三島由紀夫は論争ジャーナルの編集室に頻繁に顔を出し、何やら男同志で、いつも楽しそうにはしゃいでいたように見受けられました。後からわかったことですが、このころから自衛隊での体験入隊楯の会を結成するための準備をしていたようです。

この『論争ジャーナル』で、「高山義彦」というペンネームで評論を書いていた持丸(現、松浦博)と、かつて一緒に学生運動をしていた関係で、私もしばしば編集室には出入りするようになり、自然と三島先生ともお会いする機会が増えていきました。特に、持丸が自衛隊体験入隊をしている間は、私が一人で寂しいだろうと気を使って下さったのか、「芳子さん 一緒に行こう」と色々な所に連れていって下さいました。美術館や「日展」にも同行させていただいた。

「癩王のテラス」、「朱雀家の滅亡」などの、舞台に誘って下さることもあり、ご自分で書かれた作品の舞台の初日に同行させて頂くこともありました。

日ごろから三島先生は、とりわけ自分に厳しく、一分たりとも時間を無駄にしない、非常に精錬な生き方をされていました。

当時の私は、難しい話はよくわからず、ただただ、三島先生とたわいもない話をしていただけでしたが、今考えると、一緒に過ごした時間に色々なことを聞いておけば良かったと思いますが、それでも三島先生と過ごした時間は、私にとっては、大切な生き様の学びであった気がいたします。        

三島先生と出会ってから二年が過ぎた夏の午後、私と持丸は婚約の報告にご自宅に伺うことになりました。奥様が桜茶に紅白の和菓子をそえておだしくださり、お二人でたいそう喜んでくれました。

ひとしきり結婚の話などで盛り上がった後、三島先生の顔から笑みが消え、突然、真剣な面持ちになられました。先生は何を言い出されるのだろうと思い、先生の顔を真っ直ぐに見つめ、次の言葉を待ちました。そして、一言。

「持丸君との結婚を機に、二人で楯の会の事務局をやってくれないだろうか」。

私は正直、驚きました。先生が持丸一人にではなく、明らかに持丸と私の二人に対しておっしゃっていたからです。三島先生は、持丸だけでなく、当時二十歳そこそこの小娘であった私のことまでも、同じ思いと志をもつ同志の一人と思って下さっていたのだ。

次に私は持丸の言葉を待ちました。彼の言葉を待つ間、なんと長かったことでしょう。まるで時間が止まってしまったような感じでした。

彼の返事は「しばらく時間をください」といって即答を避けました。

やがて一ヵ月程たって持丸の出した結論は、その後の私たちの人生を大きく変えたばかりでなく、三島先生とその周辺に、決定的な影響を与えたように思われます。

そして、あの事件・・・   

このことを思うと、切なくも、悲しみともつかぬ複雑な気持ちになります。    

私は、三島先生の自分に厳しく徹底した生き方、また、純粋な少年の様な生き様から多くのことを学びました。そのことを忘れてはならないという思いで、折々メモのようなものを書き綴っておりました。この本の執筆に当たり、そのメモを三十七年ぶりにひもといてみますと、少年のように無邪気に笑う先生の顔が、まるで昨日の出来事のようにあざやかによみがえってきます。

三島由紀夫氏」と「田形竹尾氏」。

三島先生との別れから三十年以上経ったある日、私は再びあの「強く、純粋な目」を持つ人に出会いました。三島先生の鋭さとは少し違いますが、信念のある純粋さは変わりありません。

元特攻隊の教官であり、自身も翌日の出撃命令をうけて、待機中に終戦を迎えたという壮絶な経験のある田形竹尾氏。その田形氏とふとしたことで出会い、

親子以上の年齢の差をこえてこれまで一緒に行動をさせていただいておりますが、これは三島先生が、自分がやり残した想いを私に伝えるために引き合わせてくれたのではないか、と感じる事がたびたびありました。(田形氏との出会いの詳細については、『日本人としての子育て』(日新報道)“平和であれいつまでも平和であれ”参照)

三島先生とはついに現世で一緒に歩むことはできませんでしたが、先生のいわば化身ともいうべき田形先生と共に歩き、田形氏によって叱咤激励されながら、私自身大きく成長させて頂いたことは、何か運命的であり、また大変有り難く感謝の気持ちでいっぱいです。

田形竹尾氏は、平成二十年三月十日、午前八時五十一分にあの世へ出撃していかれましたが、大変感動的な葬儀でした。真剣な生き様と、死に様をまじかに体験させていただき、胸あつい思いです。

三島先生は、「どう美しく死ぬか」を模索し、純粋に生きて、そして、亡くなられました。いっぽう、田形先生は、「どう生きぬくか」、「何のために生きるのか」を模索し生きてこられました。「どう美しく死ぬか」と「どう生きぬくか」は、一見正反対のことを言っているようですが、「後世の人のために」との想いを抱いているという点で全く同じではないかとわれます。

三島先生の生き様も壮絶でありましたが、田形先生の生き様もまた壮絶でした。

私達が生きているこの時代は、長い歴史から見ればほんの一ページに過ぎません。それぞれの時代に生きる者が、文化や伝統また日本人の心意気といったものを次の時代へと継承する、これはこの時代を生きる者の使命であるはずです。私たちには、先人の想いを引き継ぐ義務があるが、いまの私たちは、この使命をきちんと果たしているでしょうか。日本の現状を見ていると、不安にならざるを得ません。

今の「日本」という国の姿は、三島先生の想い描いた「日本」、そして田形先生の想い描いた「日本」とは大きくかけ離れたものとなっているようです。

両先生の想い描いた「日本」は既に取り戻せない段階まで荒廃してしまったのではないか・・・。そんな諦めと、諦めてはなるまいとの想いが交錯します。

三島由紀夫先生」から「田形竹尾氏」へ、そして「水島聡監督」へ・・・。

三島先生と田形氏の生き様から学んだことを書き残しておかねば・・・。そんな思いで書き綴りはじめたのが本書ですが、この二人の思いは最近になってある憂国の映画人水島聡監督に繋がっていっていることを確信するようになりました。

現在いわゆる「従軍慰安婦」問題をめぐって、昨年アメリカ下院で非難決議案が可決され、その後、オランダ議会、カナダ議会、欧州議会でも日本政府に対して公式謝罪を要求する決議が採択されています。

戦後生まれの私にとっては、戦争中のことは、色々な資料をもとに判断するしか出来ませんが、その資料は、伝聞であったり、情報戦の為の政治的偽証言である事もあるようです。場所や時代によって事実は違ってもくる。

しかし、「二十世紀最大の人身売買」の一つであると言われたり、「性奴隷」と呼ばれて、元慰安婦や遺族への賠償金が、今後、将来にわたって要求されたり、また教育にまでその記述を強要されたりしては黙ってはおられません。

当時、アジアではタイと日本のみが独立国であって、他の国々は、すべて欧米の植民地でありました。

うがった考えであるかも知れませんが、その植民地からの搾取で贅沢な暮らしをしていた国が、あの戦争で植民地を失い豊かではなくなったという悔しさが潜在意識にあって、日本憎しのトラウマがこの決議文になったのではないだろうか、とさえ思います。

戦後生まれの私達は、戦争の悲惨さを感じることもなく、平和の中で守られて生きてきました。その現代の視点からみれば、「植民地は人種差別」であり、「戦争は殺し合い」であり、慰安婦は「性奴隷」と映ります。

当時は、植民地主義の時代であり、そこでは道の中央は白人が歩き、現地の人は、端の溝を歩いたといわれるほど、差別は徹底していました。

大正八年、第一次世界大戦の戦後処理を行うために開催されたパリ講話会議で、日本は「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとしましたが、欧米は、この時、日本の意見を否決しているほどです。日本人は古来「四海同胞」「和を以って貴しとなす」といって、人種差別をきらい、「和」を大切にしてきた民族ではなかったでしょうか。

いずれにしても、今の観点で当時を批判する事は避けなければならなりません。勝者が一方的に敗者をさばいた「東京裁判」には疑問が残りますが、その後のサンフランス講和条約は、もう悲しい戦争はお互いにやめましょうという平和にむかう条約であったはずです。

トルーマン大統領は「今後、われわれの間に勝者と敗者の区別を一切なくして、お互いに平和を希求する仲間同士になるために、すべての悪意と憎しみをすてさろうではないか。」と、演説したといいます

だからこそ、律儀な日本人は、原爆の悲惨さにも東京大空襲にもシベリアの抑留にも抗議は控えていたのです。

今、戦後六十一年経って、多くの資料が公開されつつあり事実が明白になってきております。今後、さらに多くの新しい事実が判ってくるでしょう。

歴史は専門家に任せるとしても、私達は、これから良い社会を築き、平和な世界であり続けるために歴史は虚心に学ぶべきでしょう。

東京裁判は、勝者が敗者を裁いた裁判であり、その法廷のあった市ヶ谷の同じ建物で、三島由紀夫氏は、戦後の日本の欺瞞と偽善を痛烈に批判して、憤死されました。

そして今、真実を後世に映像で残しておきたいという田形竹尾氏の強い思いを引き継いで、水島聡監督が日本の誇りにかけて「南京の真実」という映画を製作しています。

三島由紀夫氏から田形竹尾氏へ、そして、水島聡監督へと、日本の将来を思う憂国の情は一本の太い糸となって繋がっております。

わずかな期間ながらもこの三人のおそば近くに接し、時には一緒に行動させて頂いた私は、大変光栄なことであり、また幸せこの上ないことですが、これを私一人で独占するには勿体ない、ご三方の思いを一人でも多くの方に伝えておかなければ・・・。そんな思いで書き綴りました。

「後をたのむ」と想いを託された私達は、一人一人が真剣に「今」を生き、真摯に歴史を繋ぎ、日本人としての想いを次の世代に伝えなければならないのではないでしょうか。私が本書で訴えたいことは単純かつ明快です。先人の思いを後世に伝える事。

「思い」を繋げよ!祖先の名誉と子孫の誇りのために・・・・・・。

平成二十年四月

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